植物の達人~石原和幸~

植物の達人~石原和幸~

植物の達人~石原和幸さんについて~

こんにちは~(^^)/

植物の達人ということで、前回からは植物の達人ともいえるような仕事をしている人たちをピックアップして紹介しております。

前回は現代のプラントハンターの西畠清順さんについて紹介しました。今回は以前、植物の達人として紹介した庭師・庭園デザイナーとして有名な「石原和幸さん」についてご紹介したいと思います。

以前も紹介しましたが、庭師の仕事について少し振り返ります。庭師は一言でいえば、庭を造るひとです。植物だけでなく、庭石や池、水路などを組み合わせて一つの庭をつくりします。ホテル・旅館・料亭などの団体から個人邸宅までさまざまなところから依頼がきます。
また庭を造り終えた後、その庭を継続して管理するのも庭師の仕事です。植物を扱っているので、長期にわたって、成長や状態を見ていかなければなりません。庭師の作業は石や植物を運ぶ力作業から、剪定などを行う繊細な作業までさまざまです。そして庭師は、植物に関する知識以外に、設計や建築に関する知識も必要となってきます。

庭師についてはだいたいお分かりいただけたと思います。そんな庭師・庭園デザイナーとして活躍している、石原和幸さんについて、簡単に紹介していきます。

1958年に長崎に生まれ、大学を卒業後、生け花の本流「池坊」に入門します。そこで花と緑に魅了され、長崎で路上販売から花屋をスタートさせます。30代半ばをすぎて庭づくりに興味をはじめます。そして2004年英国の国際ガーデニングショー「チェルシー・フラワーショー」に初出展し、シルバーギルドという準金賞を受賞しました。2006年~2008年には、史上初となる三年連続ゴールドメダル受賞という快挙を成し遂げました。そして株式会社石原和幸デザイン研究所代表を務めています。現在も緑の力で世界に貢献すべく、多方面で活躍されています。

はじめから庭師を目指していたわけではなさそうですね。ここからもっと詳しく石原和幸さんのエピソードについてふれていきたいと思います。

石原和幸さんについて

石原和幸さんは大学を卒業後、大学で取得した自動車整備士の資格を生かし、自動車整備会社で整備士として働き始めます。学生時代の夢はモトクロスのプロレーサー、大学は交通機械工学科と、花とのつながりはほとんどなかったと言います。大学卒業を控えて、未来のことを考えた際も、親のコネで市役所に入れるんじゃないか、教員免許を取ったから先生になるのではないかなど、花に関する職業に就く気はなかったそうです。

そして社会人になってから、最古かつ最大の会員数を誇る「池坊」で生け花を習い始めます。それが石原和幸さんの人生を変えます。学生時代に花屋は儲かるという話を聞いたのが頭の片隅にあったらしく、花の世界を覗いてみようと思ったのがきっかけだったそうです。石原和幸さんは池坊で先生が活けた花を見て、感動を受けます。それから本を買って勉強をはじめます。生け花に通ううちに、心に火がつき、人生これで行くんだと思ったそうです。

そして修業の場に選んだのは、勤めていた会社の近くにあった路上販売の花屋でした。花屋の社長に、給料はいらないから雇ってくれないかと頼み込みます。社長は、石原和幸さんの強い思いに動かされ、入社を許可しました。ここから石原和幸さんの花屋人生はスタートします。

石原和幸さんが入社した路上花屋は、田舎の商店街にあり、商売の基礎を体で学ぶ場となりました。社長だけでなく、向かいの八百屋の店員まで商店街のさまざまな人から商売を学びました。その頃の石原和幸さんは、将来花屋になる夢で燃えていたため、毎日が楽しくて仕方なかったそうです。順調に歩んでいた花屋修行ですが、一年たって壁にぶつかります。

この路上花屋の社長は商売がすごくうまいのですが、花束をつくるのがうまくなかったそうです。花を配達した時に、ほかの店の花束との差を感じてしまいます。そこから将来独立して花屋を開くためには、もっと技術を磨かなければならないと思い、路上花屋に別れを告げました。そこから昼の店、夜の店、葬儀専門店と1日三つをの花屋のアルバイトを掛け持ちし、勉強をし続けました。一日に三つの花屋をも掛け持ちなんて想像がつきません!石原和幸さんの花に対する思いの強さが伺えます。

独立後の苦労、そして成功

その後石原和幸さんは独立して花屋をひらきますが、苦労が待ち受けています。
一軒目の路上花屋で商売の仕方を学び、かけもちしたアルバイト先で花束の作り方を体得した石原和幸さんは25歳で、独立をします。実家の牛小屋を改造して、「花風」という名前の花屋を始めました。市場から花を仕入れる権利を持っていなかったため、家の畑に咲いている花や市場で少しだけもらった花を、電話注文で受けて届けたり、商店街の道端に店を広げたりしました。

この路上販売も正式な許可を取らずにやっていたので、警察におびえながら商売をしていたそうです。しかし、1982年7月長崎大水害が起きてしまいます。長崎の町は集中豪雨にあい、浸水だけでなく土砂災害まで発生し大きな被害をもたらしました。命に別状はなかったものの、購入した軽トラックは浸水してしまい、畑の花は全滅してしまったそうです。お客さんに花を届ける車もなく、届ける花もなく、当時の石原和幸さんにとっての全財産が流されてしまったのです。

しかし、そこで思いがけない出会いがあります。ある日、行きつけの喫茶店でマスターに悩みを打ち明けていました。そこにちょうど来ていた花屋である「花泉」の社長がその話を聞いていて、その花屋に誘ってきたのです。

花泉で働くことになった石原和幸さんは、まず商店街にある店舗で花を売り始めます。路上販売の時に学んだことをつかって、売り上げを伸ばしていきました。しばらくすると、花泉の社長が、夜の飲み屋街で花屋をはじめないかと言ってきます。ノウハウもなく、わからないことも多かったけれども勢いでこの花屋をはじめます。この飲み屋街の花屋は、一畳の広さですごく狭いものでしたが、そのすべてを石原和幸さんが任されました。自分の店のようなもので楽しくて楽しくて仕方なかったといいます。

最初は花屋があるのもきづかれないほどでしたが、あいさつから始め着々とお客さんを増やしていきました。ついに飲み屋街の花屋は、月300万を売り上げるまでになりました。

さらにこの花屋は石原和幸さんにとって大事な出会いを引き寄せます。この花屋のお客さんから誘われた集まりで、ある女性に一目惚れをし、連絡先を交換します。デートの誘いを何度も断られながらも、やっとのことでデートの約束をこぎつけ、その女性と交際をスタートさせます。

しかし結婚の話がでたとき、お金の問題にぶちあたります。彼女の両親が花屋との結婚に猛反対したそうです。そのときの石原和幸さんの給料は18万で、それは証券会社で事務職として働いていた彼女の給料よりもはるかに低いものでした。彼女の両親に何度も頼み込みやっと許してもらえます。そして石原和幸さんはお金を手に入れるためにも、もう一度独立を決意します。独立するためには花市場に入れてもらわなければならなくて、それには花泉の社長からの紹介が必要だったのです。しかし、社長は独立を許してくれませんでした。これ以上交渉しても無理だと思った石原和幸さんは、一言言ってそのまま花泉を去ったそうです。

念願の独立を果たしましたが、市場に入れないため直接、生産者のところへ交渉しにいきます。探し回って、少しずつ集めた花は路上で売りました。仕入れた花は、花屋修行で学んだことをつかうことによって、すぐに売れていきました。しかし花を売る力があっても、肝心の花がありません。花さえもっと手に入ればもっとうまくいくと思ったそうです。

もどかしい日々を過ごしていた中、思いがけないきっかけでことは進みます。石原和幸さんが学生時代に知り合った寿司屋のおじさんからたまたま連絡があり、そこで自分が今花屋をやっていて花市場に入れず苦労していることをそのおじさんに相談します。するとおじさんは、花市場に知り合いがいるから紹介してあげると言い出したそうです。

そうして石原和幸さんは花市場に入ることができました。
紹介してもらった花市場は、福岡県久留米市にあります。長崎市から久留米市までは、高速道路もないので、仕入れには3~4時間をかけて行いました。遠くに仕入れに行っている甲斐もあり、長崎にある他の花屋にはないような花を店に並べることができました。市場には花が山ほどあり、全部売り切る自信があった石原和幸さんは、大量の花を仕入れます。

軽トラックに乗りきらないほどの花を持ち帰り、その途中で出会う人たちに積み切れなかった花を売ったりしていました。あちこちに寄り道をしながら、とうとう店につくまでには半分の花が売れてしまうこともあったそうです。帰り道で売った分で仕入れ値は回収できているので、路上で売る分はどんなに安くしても利益になりました。軽トラックに積み切れないほどの花を帰り道で半分売り、その残りを路上で安く売るという商売を続けていたところ、巷で噂になり、長崎のテレビ番組にまで取り上げられたそうです。最初は軽トラックで仕入れをしていましたが、それが半年で二トンの保冷車で仕入れを行うまでになりました。しかし路上販売にも限界が訪れます。とうとう警察がやってきて取り締まりを受けてしまったので、半年間の路上販売を終わりにしました。

路上で売ることができなくなったので、店舗をつくること決めます。まずは物件探しからはじめますが、いい場所はそれなりに家賃が高いです。なかなかいい物件が見つからないまま町を歩いていると、一等地にある自動販売機に目についたそうです。この自動販売機の売上以上のお金を出せば、この土地を借りることができるのではないかと考えます。そしてこの土地のオーナーと交渉して土地を借りることができました。自動販売機を押しのけるという発想はなかなか思いつかないですよね。

一等地の自動販売機を交渉して押しのけて作った屋根付きの簡易店舗を「風花」と名付け、花屋としての再スタートを切りました。石原和幸さんは以前にもまして花をどっさり仕入れ、花屋修行で身に付けた力を使って、花を売りまくったそうです。お店は繁盛し、順調に二号店、三号店、四号店と店を増やしていきました。そのうち普通の物件も借りられるようになり、二年で合計30店舗をオープンさせることができたのです!屋根付き簡易店を持ってから一年、風花は長崎で一番の花屋になりました。

ついに石原和幸さんの夢がかなった瞬間です!
しかし店が軌道に乗りだして、お金にも余裕がでてきた35歳ころから少しずつ状況が変わってしまいます。長崎で一番の花屋になった後、花屋のコンサルタントをしたり、通販事業をしたりして、会社を大きくしようとしていました。

軌道にのっての会社設立、そして、、、

そんなときに、大手商社から合弁会社の話を持ち掛けられ、会社をつくることを決めます。会社名は「カザハナコーポレーション」です。本社は東京都港区白金といういかにもおしゃれなエリアにおきました。全国にフランチャイズ店を広げることが事業の中心で、インターネット事業部、ガーデニング事業部、小売り事業部、フランチャイズ事業部などさまざまな部署がありました。そのときの石原和幸さんは、長崎でうまくいったのだからなんでもできると思っていたそうです。

しかし全国展開では話が違います。長崎で花を売っていたころは、お客さんとの会話からその人の好みや、土地の雰囲気をつかみ、それに合わせて試行錯誤をしながら花を入荷していたりしました。しかし全国の店舗を回るわけにもいきません。本社で計画を立てたり、会議をしたりするだけで、お客さんの生の声を聞く機会がなくなっていきました。さらに本社の家費、インターネット事業のためのシステム構築費など、コストはさらにかさんでいきます。売り上げもなかなか伸びず、借入金ばかりが増えていきます。ついに負債は8億円になり、合弁会社をはじめてから二年、会社をたたむことになりますそして。長崎の花風に残った社員たちと借金を返済する日々がはじまります。

挫折を救う庭の存在

そんな日々を救ってくれたのは庭でした。35歳ごろから、お客さんの依頼で庭をつくる仕事も引き受けていて、借金を返そうとしていた二年間、毎日二件の庭をつくり続けたそうです。庭づくりにおいて、精神的にも限界を感じていたころ、イギリスにチェルシー・フラワーショーという世界で一番権威のあるガーデニングショーがあることを知ります。そこにある庭を見て、石原和幸さんは感銘を受けます。長崎でちょっと有名になったくらいで喜んでいた自分に恥を感じたといいます。世界トップレベルの庭を目にして、自分がいかに狭い世界の中にいたかを実感すると同時に、狭い世界を飛び越えた先に行きたいという思いが沸き上がってきたそうです。すぐに長崎に帰って、社員を集めチェルシー・フラワーショーに出展することを決意します。

チェルシー・フラワーショーに出展するには、2.3カ月の内にデザインとコンセプトを決めなければなりませんでした。そして迷いに迷った結果、高級な材料をふんだんに使った豪華な庭よりも、ありのままの風景にこそ、人を動かす何かがあると考えます。そこで心打たれる風景を探し続けました。見つかったのは熊本県阿蘇郡白水村の川の源流付近の景色でした。

その景色が「源」という作品のコンセプトになりました。その後コンセプトとデザインを固め出した書類は、選考を通りました。しかしここでお金の壁が立ちはだかります。海外からの出展チームは、かなりの資金をかけてガーデンショーに挑むとのこと。借金が残っていたうえに住宅ローンまで残っていた石原和幸さんには厳しい状況でした。もちろん社員も妻も出展を反対しました。

一度言い出したら聞かない性格である石原和幸さんを周囲は誰も止められなかったそうです。そこから土地や家などを売り、なんとかお金を用意します。このフラワーショーに出ることは、独立して店を出したときと同じくらい興奮した出来事だったそうです。花屋が造った庭で、町おこしをしたいという想いが石原和幸さんに芽生えたといいます。

そして石原和幸さんとチームメンバーはイギリスへ渡ります。ちょうどその頃イギリスのポンドが高騰していたこともあり、お金は飛ぶように無くなっていったそうです。イギリスについてから、庭を構成する植物を探しに出回ります。ワシントン条約があるため、日本から植物を持ち込むことはできません。しかしなかなかいい植物が見つからず情報収集する日々が続きます。

さらに石原和幸さんが造ろうとしていた庭はコケを多く使うデザインだったそうで、コケが売り物として出回っていないイギリスではコケを見つけること難しかったといいます。売り物として見つからないならば、一般家庭に生えているコケをもらうしかありません。紹介してもらった人の家やその人の親戚の家すべてを回ってできるだけのコケを集めました。

しかし苦労して集めたコケは使える状態ではなかったため、実際に使うことはなかったそうです。初めてのイギリスは思い通りにならに事が多く、さらにチーム内でもトラブルが続出しました。方言がきつすぎて話が通じなかったり、作業道具が壊れたりなかなかうまくいきません。そんなこんなで用意した資金もほぼ底をつき、準備はまるでできていない状態でした。そしてついにチェルシー・フラワーショーの会場において、庭を造る9日間がはじまります。そこでも頼んだ物がイメージと違いすぎたり、量が足りなかったりとトラブルは続きます。

仕方がないので会場でほかのチームが余ったものを使わせてくれないかと交渉に行きます。毎日のように材料を分けてくれないかと歩き回っていたため、ショー当日までには会場内でちょっとした有名人になっていたそうです。驚いたことに、ライバルであるはずなのに助けをしてくれるチームがたくさんでした。

石原和幸さんたちが造った庭は、花を一切使わずにテーマである「源」を表現しました。イギリスでは庭を造るとき、植物をたくさん使うそうなので、逆に少ない植物で庭を造ろうと思ったといいます。植物を最小限にしか使わず、花が一輪もない日本のわびさびを取り入れた庭でした。そしてショーの最終日、結果を知らせるためにブースに審査員がやってきます。結果はなんとシルバーギルト!!!銀メダルにあたるものです。初挑戦の日本人がシルバーギルドを取ったことは、イギリスのメディアで取り上げられ、すごい騒ぎとなりました。

日本でもシルバーギルドを取ったことが騒ぎになっていて、仕事がたくさん舞い込んでくるのではないかと思った石原和幸さんですが、実際は何も変わりませんでした。日本ではチェルシー・フラワーショーは全然知られていなかったそうです。市民表彰や県民表彰をもらいましたが、仕事への影響はほぼなかったそうです。しかしそれが逆に石原和幸さんに火をつけました。次も絶対にチェルシー・フラワーショー出て、必ずゴールドメダルを取ると決意をして、また走り出す日々がはじまります。

毎月40件ほど庭を造り続けながらも、次のデザインやチーム構成を考え、2年かがりで5000万円の資金を集めました。その資金を持って、再びイギリスに渡ります。二度目の作品のテーマは「青嵐」で、里山の風景を参考にどこか懐かしさを感じる庭つくることに決めます。青嵐とは、初夏に青葉をゆすって吹き渡る風のことであり、イギリス人にとっては馴染みのないテーマだと思われます。花を全く使わなかった「源」とは違い、限りなく少ない植物で里山の優しさや懐かしさを表現していきました。

前回の出場から二年が経ち、持っていた力を全て出しきって挑みました。その結果はなんとゴールドメダル!!!事業に失敗して借金を負ったことも、家や土地を手放すまで追い詰められたことも、すべてがこのゴールドメダルに繋がったと石原和幸さんは考えます。

そしてゴールドメダルを取った後、石原和幸さんを取り巻く環境は次第に変わっていきます。さまざまなところから契約の話が来るようになり、そのなかでも長崎の造船所と契約することになります。契約金はなんと5000万円!しかも三回目のチェルシー・フラワーショーでの資金はすべてこの会社が出してくれるとのことです。そして三回目のチェルシー・フラワーショーでは「雲庭」というテーマで、またゴールドメダルを取ることができます。

その次の作品「緑の扉」でもゴールドメダルを獲得します。それまでの二回のゴールドメダルは、賞をとらなければという想いが強かったそうですが、今回はそれ以上に自分自身が楽しいと思える庭づくりを目指したそうです。子供のころの記憶の中に出てくるような、わくわくできる体験や風景を庭につめたんですね!中でも秘密基地が思い出に残っていて、それを意識したデザインにしたそうです。そして石原和幸さんは、この庭のデザインをかいたとき、ゴールドメダルを確信したと言います。実際、審査員もデザインを見た瞬間、ゴールドメダルを取るだろうと思ったらしく、会場内の場所決めの時もいい場所を割り振ってくれたそうです。

「緑の庭」は、一面がコケで覆われた扉を開けると、童話に出てきそうな緑が広がる部屋がでてきます。その部屋には、片隅に川を思わせる水がながれていたり、鳥の巣箱があちこちに吊るされていたり、さまざまな発見ができます。見たことはないけれど、どこか懐かしさを感じる空間となったそうです。こうして「緑の扉」がゴールドメダルをとり、石原和幸さんは世界でたった一人の三年連続ゴールドメダリストになりました。「世界一になる」という夢がかなった瞬間でした。

チェルシー・フラワーショーにでたきっかけは、庭に感銘を受けたこともありますが、なにより借金を抱えて崖っぷちに立たされた状態からの大逆転を求めたことでした。最初は借金を返さなければならないという思いが常に頭の中にあったと言います。しかし庭をこころから愛するライバルたちと出会い、お互いに高め合っていく中でなんのために庭をつくるのかがわかってきたそうです。4度のフラワーショーを経て、「花と緑で世界を変えたい」と心か思えると石原和幸さんは言います。そして今では、日本各地で花と緑をつかった町おこしプロジェクトを行っています

たくさんの苦労を経て、花屋から庭師へと転身したのですね。石原和幸さんの造る庭とそこに込められた思い、それを造るまでの惜しみない努力には心を打たれます。そして今では庭造りを通して、町おこしのプロジェクトも行っているということで、その一部を紹介していきたいと思います。

石原和幸のプロジェクトについて

石原和幸さんは町おこしとして長崎県長与町に、「まなび野の森」を設立しました。人口4万人ほどの町に、森をつくり、花や緑を楽しむことができるカフェやパン屋などの店舗をつくりました。花屋をしていた時には、人が多く集まるところに店を出していましたが、あえて人のいないところに風景をつくり、店を出すことによって人がわざわざ足を運びたくなる空間を作り出したいと思ったそうです。六人の出資者を募り、お金を出し合って有限会社を設立し、森づくりをスタートさせました。

まなび野の森をスタートさせて2年はなかなか客足がのびなかったといいます。しかし数年たって木々が成長してきたころ、もう一度庭のコンセプトを見つめ直し、一から空間を変えました。そうするとだんだんと人が訪れるようになっていきました。こうして今では喫茶店やパン屋さんなど10件ほどのテナントが並んでいます。そしてこの森ができてからは、町の人々が競い合って花を植えるようになったそうです。この森は長崎の中心地から、車で20分ほどかかります。

わざわざ行こうと思わない限り、お客さんが自然に集まるようなところではないのですが、今では一日300人ほどのお客さんがこの森を訪れます。なぜこのような遠い場所に人があつまるのでしょうか。そこに風景があるあらだと石原和幸さんは言います。子供の時囲まれていた空間、昔懐かしい里山の空間こそ日本人の心を掴むのだと思います。

里山づくりは新潟県の妙高高原や長崎県の雲仙普賢岳でも行われています。新潟県の妙高高原では、減ってしまった観光客を取り戻すために町をあげてこのプロジェクトを進めています。市長からじきじきに依頼を受け、そこで石原和幸さんは元気な奥さんを100人集めてくださいと市長に言ったそうです。そして集まった50~70代の奥さんたちに向けて、寄せ植え教室を開きました。

その後の集まりには800人もが参加し、住んでいる地域以外の人と関わる場となりました。その後も講演会やコンテストを開くことで、花や緑が増え、町が全体の景観が変わり、人が集まってくるようになりました。また妙高高原や雲仙普賢岳が町おこし成功していくと、その隣の町も真似するかもしれません。そうやって、花や緑で、町を、日本を、世界を変えていきたいと石原和幸さんは願います。

これまで石原和幸さんは個人邸宅からショッピングモールや空港などの公共施設まで、数千件の庭を造ってきました。人を驚かせる庭をつくるためには、まず自分自身が驚かなければならないそうです。庭をつくっている自分自身がわくわくを感じないと、人を感動させることはできないのですね。庭だけでなく、動物園や水族館やアート、世界遺産など世界中いろいろな景色を見た中で、それを超える空間をつくっていきたいと言います。そして石原和幸さんの原動力は、お客さんへの想いです。

花束を渡したとき、庭を仕上げたときのお客さんの顔が見たくてこの仕事を続けてきたといいます。そしてこれからも生涯をかけて、花と緑の力で、幸せの空間をつくっていきたいという願いがあるそうです。

まとめ

今回は石原和幸さんについて詳しくエピソードを紹介していきました。自動車整備士からはじまり花屋、庭園デザイナーと波乱万丈な人生を歩んでいる方だなと思いました。しかしどんなに周りに反対されても、借金をしても、庭をつくり続けた熱い想いが感じられます。さらに石原和幸さんをそこまで魅了する花や緑の素晴らしさを改めて感じます。

もともとの才能もあるかもしれませんが、なによりお客さんを喜ばせたいという想いが仕事に反映して、世界一の庭園デザイナーになれたのだと思います。

前回紹介した西畠清順さん同様、石原和幸さんが作った庭は全国各地のショッピングモールやホテル、空港などにもあるのでぜひのぞいてみてください!こらからも花と緑の力で私たちの生活を豊かにしてくれることを期待します(^^)/